いつも心にIKKOを

理不尽なことで落ち込む、ちゃんとしたいのにやる気が出ない。私にはしょっちゅうそんな瞬間が訪れ、もやもやしたまま動けなくなり時間を浪費する。

もったいないのはわかっているけど、自分ひとりではどうしようもないから仕方がない。同じ悩みを抱えている人は、きっと他にもいるはずなのだ。けれども気分が沈んでいる時はひとりぼっちモードに入るので、誰にも共有できないし助けを求めることすらできない。

 

そんな私を救ったのはIKKOだった。みなさんご存知、美容家のIKKOが、ある日から私の心に住み着いたのである。

IKKOが心の中にはじめて現れたのは、バイトをしている時だった。仕事中の理不尽な出来事から、私の心が重くなりはじめた。今のは果たして自分が悪かったのか?どう対応するのが正解だったのか?自問自答が更に重くのしかかった。

すると突然、IKKOが人差し指を立てて左右に振りながら、「申し訳〜!」と興奮気味に走ってきた。もちろん、これは私の心の中での話だ。

それでも私は、IKKOとの邂逅により、何かを悟ったような気がした。そうだ、今後はとりあえずIKKOに謝ってもらおう。自分に非がないにも関わらず申し訳ない気持ちになるのは納得がいかないけど、IKKOが代わりにライトな謝罪をしてくれるなら、だいぶ楽になるかもしれない。

 

それ以来、私の心の一室にIKKOが住むようになった。基本的には「申し訳〜!」しか言わないが、最近は夕飯のメニューを考えていると「献立〜!」と入ってくるようになった。

実際のIKKOさんがこんな台詞を言っているかどうかはわからないし、たぶん言わないと思う。でも、そこは心の中なのでオールオッケー。何を言ってもらっても構わないのだ。

 

心の中に誰かを住まわせる、という試みは、以前にもしたことがあった。コウペンちゃん、というペンギンのキャラクターを思い描いて、落ち込んだ時は励ましてもらうといい、と人から勧められたのだ。最初の方はかなりうまくいっていたが、いくらキャラクターとはいえ、あくまで自分の想像だから、ポジティブな言葉を絞り出すのは気力のいることだった。

その点、IKKOは決して前向きなことは言わない。ハイテンションに謝罪するか、毒にも薬にもならない単語を挟んでくるだけだ。結果、IKKOは一年以上に渡って、私の心に住み続けている。最近はIKKOだけでなく、千原ジュニアとりゅうちぇるも越してきたので、かなり賑やかである。

 

千原ジュニアは、主に料理中出現する。かつてはレシピを見てきっちり作らないと気が済まなかった私だが、「ガーッ切って、ぶわー炒めて」と千原ジュニアが言ってくれるおかげで、気楽に雑な料理ができるようになった。

りゅうちぇるは、私が他人のことで悩みすぎている時に「でもそんなこと関係なくなぁい?」と話しかけてくれる。悪い意味で真面目すぎる私を、程よく緩めてくれる、心強い味方である。

 

ちなみに、私はこのお三方のファンというわけではない。むしろ、テレビをあまり見ないこともあって、正直よく存じ上げない。それでも、私の心に現れたのは何かの縁なのだと思う。今後も誰かが訪ねてきたら、ひとまず部屋に迎え入れるつもりだ。

 

もし、今これを読んでいるあなたが、ネガティブな気持ちで苦しんでいるのなら、ぜひ自分の中に現れた誰かの言葉に耳を傾け、その人を引き止めてみてほしい。ひょっとすると、その人はあなたの味方になってくれるかもしれない。

 

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これは2個の団子

 

無という選択肢と最適解

前回の給料日は、昼過ぎまでご機嫌だった。

 

入金を確認して郵便局を出ると、予想以上の日差しに思わず目を細めた。今日は暑いしアイスコーヒーでも飲もうかという気分になり、駅前の珈琲店でテイクアウトすることにした。普段だったら、それなりにいいお値段のするコーヒーは選択肢に入らず、コンビニで済ませてしまう。でも今日は給料日だし、なんとなく気分がいい。たまには美味しいコーヒーを飲もうじゃないか。

 

店のカウンターでメニューを眺め、ふと顔を上げると、何やら気になる紙が貼り出されていた。

「水出しコーヒー数量限定 テイクアウトできます」

即決だった。以前水出し紅茶を飲んで以来、私は水出しというワードに弱い。水出しコーヒーは飲んだことないけど、きっと美味しいに違いない。

「今日はゲイシャコーヒーですよ。これがねえ、いやあなんとも、美味しいですから」

コーヒーを手渡す時に店のおじさんがこんなことを言うものだから、私の期待は最高潮に達した。

 

まずは一口。うまい。もう一口。美味しい……。雑味がなく透明感のある味わいで、口に酸っぱさが残らない。コーヒーは全然詳しくないけど、これは美味しい。いくらでも飲めてしまいそうだ。紙コップはあっという間に空になってしまった。あとから調べたところ、ゲイシャコーヒーはそれなりに高級な品種らしい。そんないいものを、私は一気に飲んでしまった。なんという贅沢。

 

水出しコーヒーのおかげで、私の機嫌は気温と共にぐんぐん上昇していた。爽やかな気分で自転車を漕ぐと、いつもより風が心地よい。水出しコーヒーマジックかもしれない。

 

帰り道、ドラッグストアの前を通りすぎると、そろそろハンドクリームを買う必要があったことを思い出した。大学を卒業したあたりから、手指の乾燥がひどく、冬場以外でもハンドクリームは欠かせない。歳を重ねるとはこういうことなのかと、しみじみ思う。

今日は給料日だ。そして機嫌もいい。いい香りのハンドクリームがあれば完璧じゃないか。意気込んでドラッグストアに入った私であったが、そう広くない店内に並ぶハンドクリームの種類は、それほど多くはなかった。

また今度他の店で買ってもいいのだが、できれば、いやどうしても、今欲しい。更に欲を言えば、今まで使ったことがないものを買いたい。時世の問題でテスターはなかったが、柑橘系の香りなら間違いないだろう、とグレープフルーツのハンドクリームを手に取った。

ドラッグストアに行くとつい余計なものまで買ってしまう質の私は、この日も、柑橘の香りを謳うリップクリームが目に入ってきてしまった。オーガニックと書いてあるけど、高くはない。ネットでの評判も悪くない。私はハンドクリームとリップクリームを握りしめ、レジへと向かった。

 

つい数分前まではあんなに浮かれていたのに、帰宅する頃には、なんだかんだで散財してしまったなあ、と我に返りつつあった。

気を取り直して、早速ハンドクリームを使ってみる。いい香りを嗅ぐことでまた気分を回復しようという作戦だ。

クリームを手に伸ばすと、グレープフルーツの香りが漂ってきた。ところが、なんだかしっくりこない。臭いというわけではないが、何かが違う。

そうだ、リップクリームもあるんだった。パッケージから取り出し、キャップを外そうとすると、手がハンドクリームで滑ってうまく開けられない。おっとこれは雲行きが怪しくなってきたぞ。心の中で実況しながら、やっとの事でキャップを開け、唇に塗ってみる。

残念なことに、リップクリームの香りも、想像とはかなり異なっていた。私はここでやっと理解した。どちらの香りも、私の好みではない。むしろ苦手な香りだった。

 

二つの香りが混ざり合い、私はだんだん気分が悪くなってきた。急いで手と口を洗い、布団の上にうずくまる。こんなことで、と情けなくなるが、泣きそうになった。さっきまであんなに気分が良かったのに、余計な買い物をしたせいで、自分で全てを壊してしまった。買ったものが両方合わなかったというのも、ダメージが大きい要因だった。

 

それからというもの、私は自分の好きな香りがわからなくなっていった。それまで好きだった香りも、本当は嫌いなのではないかという気がして仕方なかった。アロマランプを使うほど香りに癒しを求めてきた自分が、まさかこんな状況になるとは考えもしなかったので、頭の中がひどく混乱した。

 

数日間ほとんど保湿をしないでいたら、湿度の高い日が増えてきたとはいえ、さすがに手の乾燥が気になるようになった。

もうなんでもいいや、とにかく匂いがしないものを…と思い、部屋にあったボディーローションに手を伸ばした。お風呂の中で使うボディミルクを買ってからというものの、ボディーローションはほとんど出番を失っていた。

白くとろみのある液体を手に伸ばしながら、はっとした。そうだ、無香料という手があるじゃないか。なぜ今まで気がつかなかったのか。いい香りのするものを求めすぎて、一番フラットな状態であるはずの「無」という選択肢を忘れていた。

無香料のボディーローションは、若干の原料臭はするものの、香りの主張がない分、混乱する気持ちをリセットしてくれた。数日ぶりに覚える安堵感。無香料ってこんなに素晴らしかったのか、と涙が出そうになった。

 

無という選択肢が実は最適解だった、という経験は、思い返せば過去にもあった。

私は子供の頃からこだわりが強く、肌が敏感だった。そのため、縫い目が気にならないよう肌着は必ず裏返して着ていたし、自分の好きな服しか着たくなかった。

妹を産むために母が入院し、祖母に預けられていた時も、私はお気に入りのミニーちゃんのTシャツ以外着ようとしなかった。夏場だったので、さすがに洗濯しなくては、と思った祖母はそのTシャツを脱がせたが、私は結局着替えることはせず、Tシャツが乾くまでパンツ一丁で過ごしていたという。

祖母は困り果てたことだろうと思うが、この時の私は、ミニーちゃん以外のTシャツを着るくらいなら裸でいる方が良かったのだ。まだ二歳と幼かったし、外に出ない分には特に問題なかったのである。もしこれが今の私だったら、家族の前で何も着ないで過ごすのはさすがに恥ずかしいと感じるし選択肢には入らないが、幼い私のあの瞬間においては「何も着ない」が最適解だったのだと思う。

 

服を着るか着ないか、というのは少し極端な話かもしれない。その一方で、無という選択肢、あるいは今の自分にはありえない選択肢を、なるべく想定しようとする人間でありたい、とも思う。

アイスコーヒーを飲もうとしていたら水出しコーヒーの文字が目に入ったように、考えてもいなかった選択肢は意外とすぐそばにあったりするし、その時点では存在しなかったとしても、工夫次第で実現できるかもしれない。

歳を重ねると、自分の知っている範囲内でしか思考できない気がしてしまうが、きっとそんなことはなく、注意深く見ていればヒントが見つかって、より良い最適解が導き出せるはずだと思う。最適解は、現状が更新されればいくらでも更新できる。

 

ただ、今これを書いている私は眠気と戦っているが、この場合はおそらく「何もしないで寝る」以上の最適解は得られない気がする。まして自分が座っているすぐ後ろに布団があるのだから、もう寝るしかない。眠すぎて他の選択肢を想定できるほど頭が回らない。人類は、眠気の前ではただ無力である。

 

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ドクダミチャレンジ

庭の雑草が伸びてきた。

 

伸びてきたというより、もう伸び放題だ。まだ大丈夫だろう、と呑気に構えているうちに春になり、気がつけば大変なことになっていた。季節もいつの間にか、夏へと片足を踏み入れている。一方の私はスタートダッシュの時点で出遅れている。

こうなってくると足取りは重い。腰も重い。草を抜くのがめんどくさい。ご近所の目が気になるのは何となくわかるがやはりめんどくさい。

 

それでも季節は待ってくれない。軽やかなステップで庭中を駆け回り、その足跡には根を深く張った立派な植物を残していく。その植物の名前はわからないものも多いが、もはや草というより小さい木なのではないかと思うほど、立派に成長しているのは見て取れる。

 

このままだと完全に置いていかれる。ジャングルのような庭に一人取り残されるのは嫌だ。

私はのろのろと歩き出した。やらないことには始まらない。日焼け止めを塗り、グリップの利く手袋をつけ、虫除けスプレーをたっぷりと吹き付ける。普段であれば、とりあえず、の気持ちで形から入るタイプの私だが、今回に限っては自分を守るために完璧な事前準備が必要となる。とりあえずなどという生半可な気持ちではいけない。

見えない鎧を身につけた私は、大股で玄関を出た。まずはすぐ左手にある生垣の裏から始める。生垣と言っても、そこまで立派なものではなく、外からも裏側がしっかりと見えてしまう。とりあえず形から入る私なので、いちばん人目に着くところから着手することにした。

 

その領域を侵食している植物のほとんどは、ドクダミとシダのような植物だった。葉をかき分け、根元を掴んで抜いていく。あんなに億劫だった草抜きもいざやってみると、ひたすら抜くだけの単純作業なのでストレス発散になりそうだ。

 

抜き始めたところで、あることに気がついた。ドクダミを抜くのがすごく楽しい。茎がしっかりしているのだろうか、抜いた際に途中で千切れることがなく、土の下に長く伸びる根がたっぷりとついてくるのだ。

ドクダミを引っ張ると、遠くの方から根がブチブチブチっと音を立てて現れてくる。根は横に伸びている傾向にあるようで、抜くだけで自然と広範囲の土が耕される。これがなかなかおもしろい。

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ドクダミの花

 

始めのうちはただ抜いて集めるを繰り返していた私だったが、途中から思いつきである挑戦をすることにした。

 

名付けて「ドクダミチャレンジ」である。

 

抜くと根がついてくると言っても、力任せに抜くと根が耐えられず、すぐに千切れてしまう。たっぷりの根をゲットするには、コツがいるのだ。

今日一日で、どこまで長い根をゲットできるか。競う相手はいないので、自分との戦いである。アスリートのように、記録を更新し続けるモチベーションを試す。

根を最後まで取りきるのは不可能に近いが、とにかく限界を目指すのだ。そう心に誓い、私は草抜きを再開した。

 

すると早速、素晴らしい個体を手に入れたので、思わず写真を撮った。

 

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個体第一号

根はほぼ直角に近い角度で曲がっていて、地中に入るとすぐ真横に伸びていたことがわかる。しかも途中で二手に分かれている。これぞ根の力強さである。ほとんどの個体は二股になる地点まで辿り着かなかったので、これはかなりレアだと思う(筆者調べ)。

 

生垣裏のドクダミをあらかた抜き終えると、今度は庭の方へ回った。ちなみにシダは根が硬く、ほとんど取ることができなかったので、適当に終わらせた。

 

庭を見て驚いた。こちらにもドクダミが生い茂っている。ついでにヨモギやよくわからない植物も生い茂っているが、ドクダミ以外に用はない。

 

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個体第二号

庭で抜いたものは別の場所に集めていたが、中でも素晴らしい個体は玄関に持ち帰り、写真を撮った。こちらは根が始まってすぐの地点で二手に分かれている。長さのアンバランスさが愛らしい。ちなみに、右上に写っているのは適当に抜いたシダの葉である。

 

 

昼過ぎになり空腹を感じたので、今日のところはこれで打ち切りとした。

見えない鎧を身にまとっていたせいか、蚊に刺されることはなかった。まだ蚊が飛んでいない可能性も高いが、何かに勝った気分だ。

ドクダミとシダを合わせると、ちょっとした山になったので、妙な満足感があった。ついでにイヤホンのイヤーピースや袋の切れ端など、よくわからないゴミも拾っておいたことで、人間としてのレベルが上がったような気がした。

 

 

しかしこのドクダミチャレンジ、またやりたいという気持ちにはならないのが不思議である。

やはり雑草を抜くのはめんどくさいのかもしれない。

低気圧に対抗するなら達郎しかない

天気が悪い日が増えてきた。そろそろ梅雨入りも近いかもしれない。

 

大人になってからというもの、体調が天気に左右されるようになった。雨の日は頭が痛い。曇りの日も頭が痛い。そしてイライラする。同じ症状に悩む人も多いらしく、気象病という名前があることを最近知った。

天気が悪い日は、体調不良をすべて低気圧のせいにしている。全部低気圧が悪い。やる気が出ないのも人に優しくできないのも、低気圧のせいだと言い聞かせる。

その一方で、何かのせいにするというのもそれなりに神経を使う。気圧だって好きで下がっているわけではない。この世界はそういうものだから仕方がない。なのにみんなから責任を押し付けられるなんてかわいそうだ。それなら私の方でなんとか順応していく方が、私も気圧も幸せになれるはずだ。

 

頭痛に苦しみながらも、低気圧に対抗する方法を考えてみることにした。

症状を緩和するという観点で言うなら、頭痛薬を飲むとか、手っ取り早い方法はある。ただ、私の場合は既に持病の薬を毎日飲んでいるので、これ以上の服薬は避けたいところだ。

あとは、イライラするならいっそ寝てしまえばいい。寝てしまえればどんなに楽だろう。寝てしまえないから悩んでいる。いつでもどこでも寝ているわけにはいかない。

 

だったらもう、低気圧そのものに戦いを挑むしかない。

ここで私はひらめいた。低気圧の反対は高気圧。ということは、高気圧なら対抗できるのではないか。

なんとも頭の悪い発想だと思う。気象予報士が聞いたらどんな顔をするだろうか。しかし私は確信していた。高気圧ならいける。低気圧とぶつかることで、相殺できる。何を相殺させるのかはよくわからないが、なんとなくいい感じにフラットな状態になればいいだろう。

 

私は日本で一番有名な高気圧を召喚した。そう、山下達郎である。

スマートフォンから「高気圧ガール」が流れてくると、その圧倒的な高気圧ぶりにただただ驚くばかりだった。内陸に住んでいるはずなのに海が見える。空が青い。海も青い。これはすごいかもしれない。

完全に低気圧ガールだった私の頭が、少しずつ高気圧に傾いていくのを感じる。達郎がアドリブのロングトーンを歌い上げるたび、高気圧に引っ張られる。数分前より目が開いている気さえする。

 

予想以上の達郎効果に、戸惑いを覚えた。もはや達郎ならどの曲でもいい気がして、「踊ろよ、フィッシュ」をかけてみると、これも十分高気圧サイドに私を連れて行ってくれた。

 

この方法に弱点があるとすれば、継続して山下達郎を流さなければ効果が切れてしまうことかもしれない。達郎を聞いていると気分的には改善されるが、いい気分のまま曲に聞き入ってしまうので、手元の作業は大して進まなかった。マルチタスクが得意な人にはいいのかもしれない。

 

 

最終的に何が言いたいかというと、山下達郎はすごい。

 

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全然関係ないけど台湾で暑い日に食べた豆花がおいしかった

 

今週のお題「雨の日の過ごし方」

野良コンポジション・コレクション

野良コンポジションが好きだ。

何を言っているのかわからないかもしれないが、その名の通り、野良のコンポジションが好きなのである。

コンポジションと聞くと、モンドリアンの作品や、図形がリズミカルに配置されているデザインなどを思い浮かべる場合が多いかと思う。大体それで合っている。私が好きなのは、それが野良でその辺に存在している状態である。

 

言葉で説明するのはなかなか難しいので、とりあえず以下の写真を見てほしい。

 

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複数枚のトタン板の組み合わせが、微妙な大きさのズレや色の違いによって、綺麗なコンポジションになっている。

トタンのコンポジションは個人的に定番である。好きな人も多いはずだ。こちらは淡い色でまとまっている点がかなりいい。

おそらくこのトタン板は、あえて異なる色や大きさを組み合わせたわけではなく、様々な過程を経てこの形になったのだと思う。意図的でなく、明確な製作者がいない状態に、私は野良という言葉を当てることにした。

 

野良コンポジションは、いたるところに存在している。

例えば、ある程度の広さがある駐車場などは、野良コンポジションが出現しやすい。駐車スペースの白線に、ひとつでも異なる要素が加わると、一気に野良コンポジションらしくなる。

 

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この写真の場合、もともとの白線もやや珍しい配置となっているが、そこに雨よけの影が覆い被さることで、独特のリズムが生じている。

光や影が影響するパターンに関しては、天候や時間帯、季節によって異なる表情を見せてくれる。偶然の出会いもまた、野良コンポジションの魅力である。

 

また、野良コンポジションは、必ずしも平面的であるとは限らない。

以下の例は、ミラーや反射材などが物理的にくくりつけられた電柱を、一定の角度から観察しなければ成立しないコンポジションである。

 

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細い針金が張り巡らされることで、緊張感と躍動感が共存している。この写真を撮った時はちょうど正面に光が当たってフラットな印象だったが、光の方向が変わると、また違う表情を見せてくれるはずだ。

 

最後にもう一枚、私が野良コンポジションを気にかけるきっかけとなった例を紹介する。

 

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言葉にするまでもなく、青のアクセントが素晴らしい。テープの剥がし跡を隠そうともしない、その潔さ。初めて目にした瞬間、あまりの美しさに感動したのを覚えている。

 

 

 

まだまだ紹介したい野良コンポジションは山ほどあるが、今日はここまで。

来週へつづく。

親知らずとお写真

3本目の親知らずを抜いた。

 

1本目を抜いた歯医者は藪医者だった。2本目は骨を削る必要があったため総合病院を紹介され、それなりに大々的な処置を受けた。幸いなことに、2回とも腫れや痛みはほとんどなかった。

3本目はどこで抜こうかなあ、と考えているうちに、親知らずはどんどん主張を激しくしていた。既に抜いたところの歯肉に当たって、なんとなく気になる。しばらく検診にも行っていなかったので、妹が通っている歯医者を予約することにした。

 

医院は予想より新しくて綺麗なところだった。それなりに流行っているようで、問診やクリーニングなどは歯科衛生士が担当し、治療本番の時だけ忙しそうな歯科医が周ってくる、そんな様子だった。よほど暇でない限りどこもこんなものなのかもしれない。

診療台に座ると、CGの魚がモニターの中を泳いでいる。これが意外と癒される。今日はクリーニングしかしない予定だけど、もっと痛い治療をするときには緊張がほぐれて良いかもしれない。

そんなことを考えていると、歯科衛生士の女性に声をかけられた。

「はい、じゃあお写真1枚撮りますね〜」

一瞬、何のことかよくわからなかった。歯科衛生士についていくと、案内されたのはレントゲン室だった。なるほど、たしかに写真であることは間違いない。間違いないけど、「お写真」と聞くと写真館で撮る家族写真のような、ちょっと品の良いものをイメージしてしまう。レントゲン写真が下品とは言わないが、お写真と呼ぶにはやや無骨すぎる気もする。

診療台に戻ると、モニターの画面には早速、私の歯のお写真が表示されていた。レントゲン写真をまじまじと見るのは久しぶりで、よくできてるなあ、こんなに写るんだなあ、と思わず感心してしまい、見ていて飽きることはなかった。

 

2度目の診察では親知らずを抜くことになっていたので、私は少し緊張していたけど、細部までよくできたレントゲン写真と、CG水槽のおかげで、長い待ち時間に耐えることができた。麻酔をした後はさすがに飽きてきて、好奇心にも限界があることを知った。

「そろそろ抜きましょうか」

歯科医が私の口に手を入れ、処置に取りかかった。

 

 

結論から言うと、10秒で終わった。

言われるまで歯を抜いたことすら気がつかなかった。「こんなもんですよははは」と歯科医は笑っていたが、1本目を抜いた時の噴水のような出血は一体何だったのか。早く終わって嬉しいはずなのになぜか腑に落ちない自分が、更に腑に落ちなかった。

「抜いた歯、持って帰ります?」

私は反射的に「はい」と言ってしまった。抜いた歯を入れるための、歯の形をしたケースが好きなのだ。それがもらえるなら持って帰ろう。歯は縁の下に投げればいいや。そう思っていると、衝撃的な一言が続いた。

「持って帰るのはいいんですけど、いらなくなったらここに持ってきてくださいね。医療廃棄物扱いになるので」

私がぽかんとしているうちに、歯科医は一通りの説明を終えた。歯は指とかと同じで人間の体の一部だから、普通に捨てると怒られちゃうんですよ〜。

初耳にも程がある。あの有名な古くからの言い伝えは、あくまで過去のものなのだろうか。

 

気づけば、私の手にはガーゼで包まれた親知らずが収まっていた。ぽかんとしている間に受け取ってしまったらしい。しかもケースには入れてもらえなかったらしい。悲しい。

今回もまた、痛みも腫れも経験せずに済みそうだった。それよりも、私はこの通院でいろんなことを学び、また一つ大人になったような気がしていた。

 

家に帰って、親知らずのお写真を撮った。握りすぎたせいか、ガーゼがこびりついてしまって剥がれない。もうどうしたらいいのかわからない。

 

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パッチョダッシュのすすめ

もう昨年の話になるが、我が家で「パッチョダッシュ」なるゲームが流行ったことがあった。パッチョダッシュとは東京ガスのサイトで遊べるゲームのことで、「パッチョ」というクマのキャラクターがダッシュし、障害物をジャンプで避ける、といった内容だ。

www.tokyo-gas.co.jp

きっかけは私がこのゲームを家族に勧めたことだったが、どういう経緯でサイトにたどり着いたのかは全く覚えていない。おそらくTwitterの広告に出てきたのだと思う。

 

このゲーム、作りはかなりシンプルであるものの、妙にクセになる魅力を持っている。操作は簡単なのにタイミングが意外と難しく、すぐにゲームオーバーになってしまうので、つい何度もやってしまう。

「これは楽しいぞ」

そう思った私は、家族のグループLINEにリンクを貼ってみることにした。きっとはまるのは私だけではないはずだ。

私の予想通り、妹と父から早速スコアの報告が送られてきた。その報告は何日か続き、トークルームを賑わせた。

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初めてのプレイで高得点を叩き出す妹

 

家族の中で一番プレイが上手いのは妹だった。初回プレイから恐るべき高得点を叩き出し、その後も着々とスコアを上げていったのである。パッチョダッシュ界に彗星のごとく現れた期待の新人と呼んでも差し支えないと思う。

 

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実際やってみれば妹のすごさがきっとわかる

 

一方、父と私はいつも100点台止まりで、母に限っては「難しいよ〜」と5秒でゲームオーバーになってしまった。

 

数日間はお互いにスコアを報告し合っていた私たちだったが、パッチョダッシュブームはそう長くは続かなかった。

理由は明白だった。終わりが見えないのである。そもそもゲームクリアという概念があるのかどうかすら、誰にもわからなかった。パッチョダッシュマスターの妹ですら、クリア画面を目にすることはなかった。

 

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父からの最後の報告

一週間もすると、私たちはパッチョダッシュのことなど忘れ、まるで何事もなかったかのように日々は過ぎていった。

 

ところが、ブームが去ってからちょうど一年が経ったある日、私はふとパッチョダッシュのことを思い出したのである。

あのゲームはまだあるのだろうか?いやそもそもパッチョの特設サイトは残っているのか?アクセス数が少なくて閉鎖されてしまったのでは…?

私はドキドキしながら「パッチョダッシュ」と検索窓に打ち込んだ。

 

あった。

普通にあった。

パッチョダッシュは、インターネットの片隅にまだひっそりと存在していた。

 

私はなんだかパッチョダッシュに対して申し訳ない気持ちになった。いっときはあんなにおもしろがっていたのに、忘れてごめん、一人にさせてごめん。

私はもう一度、パッチョダッシュをプレイしてみた。やっぱり100点台止まりだった。

 

 

 

今更リンクを貼り付けたとして、家族の中でパッチョダッシュブームが訪れることはもうないだろう。それでも私は、あの数日間のことを思い出すと、懐かしく穏やかな気持ちになるのだ。

この一年で家族と過ごす時間が増えた人も多いかと思うが、こういうちょっとしたものが、家族関係を円滑にしてくれる場合がある。もちろんそうでもないこともある。

 

とにかくひとまずは、ぜひパッチョダッシュに挑戦してみてほしい。

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ゲームオーバー時のパッチョイラストは何パターンかあるので、それはやりこみ要素と呼べるかもしれない