名前と安心

左右盲、という言葉を最近知った。

左右の区別が苦手な人々をこう呼ぶらしい。

 

かく言う私も、「左右盲」のひとりだ。昔から右と左の感覚が掴めず、今でも判断に時間がかかる。

特に車を運転している時や、助手席でナビ係をしている時などはひどいものである。教習所では受けた指示と真逆の方向に曲がって教官に呆れられ、道案内に至っては地図を見ているにも関わらず、車を誤った方向へと導いてしまう。GPSがなかったら一生目的地にたどり着けないかもしれない。

 

自分は左右もわからないほど頭が悪いのか、と自信を失う経験をたくさんしてきたし、こんな悩みを抱えているのは私だけだろうと思っていた。

もし一つ可能性があるとしたら、高校生の頃に診断されたADHDの影響かもしれない。左右がわからないなんて特性は聞いたことがないが、とりあえず調べてみよう……私は全く期待せずに、「左右 わからない 発達障害」とネットで検索した。その検索結果として出てきたのが、左右盲という言葉だった。

 

左右盲は障害や病気などではないが、原因は解明されていないらしい。女性と左利きの人に多い傾向にある、とのことだが、左利きの人が混乱するのはなんとなく理解できる。左利きが右利き社会で生きていくのは、周囲が思っているより大変なのだ。

大変なのだ、とわかったような口ぶりで書いているが、実を言うと私は左利きではない。左利きではないと言うのも嘘になるが、なんとまあ、両利きなのである。

ただし、両利きとは言っても両手を自由自在に扱えるわけではない。どちらかといえば、「両方しっくり来ない」のだ。

 

現時点ではペンは右手、お箸は左手で落ち着いているが、これがナイフとフォークになるとどっちをどっちで使えばいいのか全くわからず、とりあえずその時の感覚で決めるようにしている。ボールを投げるとか蹴るといった動作も、どちらでやってもうまくいかないが、これは単に運動音痴なのかもしれない。

 

そんな状態で20年以上生きてきたので、左右の感覚が掴めないのはある意味当然のことのようにも思える。

頼りにしている部下のことを「右腕」と呼んだりするが、これは多くの人が右利きであることに由来している。よく使う右の腕を信用しているから、といったところだろうか。ところが、私の場合どちらの腕も信用しているし、信用ならないこともあるので、右も左もフラットな視点で捉えている。左右の感覚が養われてこなかったのはそのせいかもしれない。

 

私にとって密かなコンプレックスであった「左右の区別の下手さ」だが、左右盲という名前を与えられたことによって、この悩みを抱えているのは自分だけではなかったのだ、と劣等感が少し小さくなった。潜在的に埋もれていた悩みが、社会的地位を得たのである。

この社会的地位というものは、精神面の健康においてある程度重要なのではないかと思っている。例えばうつ病にしろ何にしろ、精神疾患の多くは病名が与えられない限り、その人の性格として捉えられてしまうことが多い。適切な対処をしないままでいると、社会で活動することが難しくなったり、本人の自尊心が削がれてしまう恐れがある。病名がついて初めて、社会的な立ち位置の調整が可能になり、寛解に向けての希望が開けるのだと思う(当の本人は絶望の渦中にいたとしても)。

 

では何にでも名前をつければいいのかというと、そこはかなり難しいところだ。全てを普遍的に分類することはできないし、名前を与えられすぎると、自分の存在がどこにあるのかだんだんわからなくなってくる。既にあるものの集合体でしかないような気がしてくるのだ。

 

このテーマについて書き始めるとキリがない上、明確な答えが出るようなものでもないが、名前が与えられたことによって救われ、考えた経験として、ここに書き留めておく。

 

ちなみにこの記事を書いていて気がついたのだが、「左右」はきちんと「左」は左で「右」は右の配置になっている。世間では当たり前のことなのかもしれないが、私にとっては大きな発見だ。ただ、それを発見したからと言って左右がわかるようになるわけではないのが悲しい。

 

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