先日、久しぶりに都内の美術館へ行った。
東京へ出るのは半年ぶりくらい。個人の楽しみのために電車で出かけるのは一年半ぶりくらいだろうか。前日から妙に緊張してしまった。
目当ての展示は、東京都美術館の企画展「Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる」。
好きな作家が出展しているのもあったけど、なんとなく気になって、緊急事態宣言も明けたことだし、と、会期が終わるギリギリで駆け込んだ。
久々に降り立った上野駅周辺は、すっかり変わっていた。
公園口は工事が終わってきれいになっていたし、改札をすぐ出て横断歩道を渡る必要もなくなっていた。一昨年まではよく都内にも出かけていたはずなのに、すっかりお上りさんに戻ったみたいだ。都会は新陳代謝が激しい。
キョロキョロしながら美術館の方向へと歩く。駅以外にも、至る所で工事が進んでいる。西洋美術館は囲いで完全に覆い隠され、中の様子が見えない。かなり大規模な工事をしているらしい。
やがて上野動物園が目に入る。そこで思わず足を止めてしまう。
動物園の入り口、表門の場所が、移動している。もとの場所は囲いがされていて、仮設の門には、平日の午前であるにも関わらず長い列ができていた。
あの門、好きだったんだけどなあ。私はこの時初めて気がついた。赤い「上野動物園」の文字に、なんとなく懐かしさを感じて惹かれていたのだった。
私は特別動物好きというわけではないので、実のところ上野動物園の敷地内には入ったことがない。それでも、あの門には何か特別な魅力があったように思う。
展示を見ている最中も、なんとなくあの門のことが気になっていた。
ジョナス・メカス、増山たづ子など、この企画展の出展作家は、記録に重きをおいた作風が多かった。メカスの長尺な日記映画を見るたびに思う。なんでこんなに撮れるんだろう。私の日常なんて、取るに足らないと表現するのもおこがましいくらい、何も起こらない日が大半だ。それでいて、自分の好きなものだって、なくなってからようやく自覚し始めるのだ。懐古趣味ではないけど、自分の心惹かれたものくらい、ちゃんと覚えておきたいのに。
情けないなあ、と思う。記憶力のない私は、こうやって気づいたことだって、またすぐに忘れてしまうのだろう。
帰りに電車の中でカネコアヤノ『光の方へ』を聴く。光の方ってどんな方だろう、などと考えてみる。
私にとって未来は明るいものではない。快晴の日なんてたぶん来ないし、ゲリラ豪雨もしょっちゅう降る気がしている。
でも、局地的な雨だったら、自分の意思で明るい方へ行くこともできるのかもしれない。どうせならそうしたい。
メカスも、増山たづ子も、どうせならと、光の方へ行こうとしていたんだろうか。もともと彼らの周りに光が溢れていたのではなくて、光を自分で見出そうとしたのかもしれない。
一昨日のこと。雨戸のサッシに迷い込んだカナブンを、洗濯ばさみにしがみつかせてベランダから逃がした。暗くて冷たいサッシの中よりも、カナブンは日の当たる庭にいて欲しいと思った。
私が自ら選択できる行動といえばこの程度のことしかないけど、少しずつ、私なりに光の方へ向かおうとしている気がする。