そういう優しさが世界を作っていくじゃん

多くの人が帰路に着く電車の中。座席はぽつぽつと空いているものの、八割がた埋まっている。

 

この時間帯の電車にしてはめずらしく小さな子供の声がしたので目をやると、四歳くらいの男の子と、大きなリュックを背負い手にはエコバッグを持ったお母さんが手を繋いでいる。かなりの大荷物だ。

 

私以外の乗客も彼らをちらちらと見ている。なぜ見るのか、理由を聞いたわけではないけど、たぶんみんな同じことを考えていたと思う。

お母さんと男の子に、なんとか座ってほしいのである。

 

お母さんの荷物がかなりの重さであろうことは見て明らかだし、子供は眠くなっていてもおかしくない時間帯だ。更に男の子はお母さんに抱っこをせがんでいる。

 

……なんとかお母さんに座ってもらって、負担を減らしたい。

 

私を含む乗客はちらちらと視線を移しながら、あたりの様子を伺っている。どうすれば二人分の席を空けつつ、その席へと自然に促せるか。

 

意を決したように、両隣が空席だったおじさんが、ひとつ隣に体を移した。おおっ、おじさんすごい、やるじゃん。

しかしそのことに親子は気付かず、おじさんからのちらちらとした視線にも気付かず、二駅ほど先で降りていった。

おじさんは、ありゃーって顔をしていた。その隣の人も、私も、ありゃーって思った。

 

でも、でも、おじさんの取った行動とか、あの一瞬の団結感とか、それは決して意味のないものではなかったと思う。

そういうちょっとした気遣いとか、優しさが、世界を作っていくと思うからだ。

その場では実を結ばなかったとしても、絶対、誰かが見ていて、次の優しさに繋がっていくから。

 

たくさんの優しさでできた世界を、いつか見られるといいなあ。

 

 

きみはえらいっ

日も沈み始めた帰り道、甘いおやつを手にセブンイレブンを出ると、交差点の角から男の子が歩いてきた。

黄色い帽子に、カバーのついたランドセル。巾着袋がぶら下がっている。小学校高学年くらいだろうか。

ちょっと歩いたら立ち止まり、またゆっくりと歩き始める。後方を歩く杖をついた女性を気にかけながら、ゆっくりゆっくり進む。どうやら、おばあちゃんと孫であるらしい。

 

その孫が、おもむろに口を開いた。

 

「ばあちゃん、おれ今日、帰ってから宿題やらなくていいんだ。学童でやってきたからね」

 

ふたりはまたゆっくりと歩き始めた。しばらくしてからおばあちゃんは「えらいねぇ〜」と一言、孫を褒めた。

 

え、えらいねぇ〜〜〜!!!!!

 

えらい、学童で宿題を終わらせてくるなんて、えらすぎる。

あくまでもただの通行人としてその場を通り過ぎた私だったが、心の中では少年へのスタンディングオベーションが鳴り止まなかった。

 

「帰ったらゲームするんだ」

すごい……家でゲームをすることまで見越して、宿題を終わらせたのか……私より計画性がある。

もちろん少年はおばあちゃんに向けて話しているので、私は一人でときめきに押し潰されそうになりながら、「オオ……えらい……きみはえらい……」と心の中で賛辞を呈するしかなかった。

 

物騒な世の中なので、他人の子供にそう簡単に話しかけることはできないけど、もし社会がもっと寛容だったなら、私は少年の肩を抱き、大きな声で叫んでいると思う。

 

きみはえらいっ!

 

雪の日の約束

バイト先の店によく買い物に来る、ガーナ人のお兄さんがいる。

 

出会った当初は日本語があまり話せず、私が英語で接客したことから、よく話しかけてくれるようになった。日本語はだんだん上達していて、今では英語をほとんど使わずともコミュニケーションが取れる。

 

今日は、そのお兄さんと初めてお茶をするはずの日だった。というのも、年明け早々、今日に限って雪が降ってしまった。とりあえず日時と集合場所を決めただけで、お兄さんの連絡先も知らないし、集合場所からは十五分ほど歩かないと飲食店にたどり着けない。どうしたものかと窓の外を見ても、雪は止むどころか薄っすらと積もり始めている。

 

雪は基本的に好きだけど、この地域ではまとまった量の雪が降ることはあまりないので、雪慣れしているわけではない。お茶はまた別の機会にした方がいいことは明らかだった。

とはいえ、それを伝えるためにはまず集合場所に行く必要がある。家からは歩いて五分くらいだけど、こういうときのために連絡先を聞いておくべきだったなあと、後悔する。お兄さんから話しかけられる時はいつも仕事中だったから、仕方ないのだけど。

 

靴箱から雪靴を引っ張り出して、マフラーと手袋を装備し、意を決して外に出る。装備のおかげで寒くはないけど、傘を差していてもだんだん身体中が雪だらけになっていく。ネイビーのウールコートに大量の雪が付着すると、悲しいほどに映える。ダウンコートを着ている人が羨ましくなった。

 

寒風に吹かれながら集合場所に着くと、お兄さんの姿が見えた。マフラーで顔が埋もれていても気付いてもらえるよう、大きく手を振る。

 

「今日、来ないかなーって、考えた。嬉しい」

 

お兄さんはほっとしたような表情で笑った。

 

 

結局、今日はこのまま雪が降り続くだろうから、お茶はまたにしようという話になった。お兄さんの連絡先を聞こうとしたら、携帯を持っていないし家にも電話がないと言うので、また日時だけを決めて別れた。

 

正直なところ私自身は、お兄さんが来なかったらどうするかの想定をしていなかった。あの人なら絶対に来るだろう、と根拠もなく考えていた。なぜなのかはわからないけど、きっとお兄さんはそういう人だから、私も約束をすっぽかすようなことはしたくないと思った。

 

ふと気になって、ガーナでも雪が降るのかどうかを調べたけど、調べるまでもなくアフリカでは滅多に雪は降らないようだった。初めて雪を見たときの気持ちってどんなだったろうか。今度温かいコーヒーを飲みながら聞いてみよう。

 

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光の方へ

先日、久しぶりに都内の美術館へ行った。

東京へ出るのは半年ぶりくらい。個人の楽しみのために電車で出かけるのは一年半ぶりくらいだろうか。前日から妙に緊張してしまった。

 

目当ての展示は、東京都美術館の企画展「Walls & Bridges 世界にふれる、世界を生きる」。

好きな作家が出展しているのもあったけど、なんとなく気になって、緊急事態宣言も明けたことだし、と、会期が終わるギリギリで駆け込んだ。

 

久々に降り立った上野駅周辺は、すっかり変わっていた。

公園口は工事が終わってきれいになっていたし、改札をすぐ出て横断歩道を渡る必要もなくなっていた。一昨年まではよく都内にも出かけていたはずなのに、すっかりお上りさんに戻ったみたいだ。都会は新陳代謝が激しい。

キョロキョロしながら美術館の方向へと歩く。駅以外にも、至る所で工事が進んでいる。西洋美術館は囲いで完全に覆い隠され、中の様子が見えない。かなり大規模な工事をしているらしい。

 

やがて上野動物園が目に入る。そこで思わず足を止めてしまう。

動物園の入り口、表門の場所が、移動している。もとの場所は囲いがされていて、仮設の門には、平日の午前であるにも関わらず長い列ができていた。

あの門、好きだったんだけどなあ。私はこの時初めて気がついた。赤い「上野動物園」の文字に、なんとなく懐かしさを感じて惹かれていたのだった。

私は特別動物好きというわけではないので、実のところ上野動物園の敷地内には入ったことがない。それでも、あの門には何か特別な魅力があったように思う。

 

展示を見ている最中も、なんとなくあの門のことが気になっていた。

ジョナス・メカス増山たづ子など、この企画展の出展作家は、記録に重きをおいた作風が多かった。メカスの長尺な日記映画を見るたびに思う。なんでこんなに撮れるんだろう。私の日常なんて、取るに足らないと表現するのもおこがましいくらい、何も起こらない日が大半だ。それでいて、自分の好きなものだって、なくなってからようやく自覚し始めるのだ。懐古趣味ではないけど、自分の心惹かれたものくらい、ちゃんと覚えておきたいのに。

情けないなあ、と思う。記憶力のない私は、こうやって気づいたことだって、またすぐに忘れてしまうのだろう。

 

帰りに電車の中でカネコアヤノ『光の方へ』を聴く。光の方ってどんな方だろう、などと考えてみる。

私にとって未来は明るいものではない。快晴の日なんてたぶん来ないし、ゲリラ豪雨もしょっちゅう降る気がしている。

でも、局地的な雨だったら、自分の意思で明るい方へ行くこともできるのかもしれない。どうせならそうしたい。

メカスも、増山たづ子も、どうせならと、光の方へ行こうとしていたんだろうか。もともと彼らの周りに光が溢れていたのではなくて、光を自分で見出そうとしたのかもしれない。

 

 

一昨日のこと。雨戸のサッシに迷い込んだカナブンを、洗濯ばさみにしがみつかせてベランダから逃がした。暗くて冷たいサッシの中よりも、カナブンは日の当たる庭にいて欲しいと思った。

私が自ら選択できる行動といえばこの程度のことしかないけど、少しずつ、私なりに光の方へ向かおうとしている気がする。

 

youtu.be

 

 

入浴剤をあげる

今月いっぱいで退職するパートさんとは、今日で会うのが最後だった。

あまりゆっくり挨拶もできなかったけど、ちょっとおしゃれな入浴剤をラッピングして、プレゼントした。

「嬉しい。きっと娘も喜ぶ」

そう言って喜んでくれた。いつも子供のことを優先して考えているところに、お母さんらしさを感じた。

 

本当は、もっと別の形で力になりたかった。そう思うのはおこがましいのかもしれない。

彼女の退職理由は、家庭の事情、ということになっていたけど、私はもう少し詳しい話を、以前本人から聞いていた。

何か力になれないだろうか、と思った。なれないのはわかっていたけど、何もできない自分がもどかしかった。ただの仕事仲間とはいえ、私にできることがあるなら手伝いたかった。

 

大学時代にうつ病を患ってからというもの、もどかしい思いばかりしている。

私にもっと体力があればよかった、精神的にもタフだったらよかった、そんなことをよく考える。心が脆いと、たくさんのことを諦めなければならない。正規の仕事も、やってみたいことも、手を伸ばそうとすれば必ずどこかに引っかかってしまう。引っかかった懸念事項に怯えて、今回は諦めよう、と何度も手を引っ込めてきた。無理をしたこともあったけど、それでうまくいくはずもなかった。

 

最近になってようやく気がついた。私にできることは、そんなに多くない。誰かにしてあげられることも少ないし、ましてや社会でどうこうなんて、とんでもない。社会は弱い人間が行動を起こせるほど、優しいシステムにはなっていないのだ。

辛い事実ではあるけど、自分の体調のことを考えれば、受け入れるほかない。

 

一方で、それでも何かしたくなってしまうのは、弱い人間の性だろうか。自分が弱いぶん、他人には優しくしたい。結局は自分のためだけど、もし相手も喜んでくれるのなら、これ以上のことはない。そう思う。

 

たぶん、だから、私は入浴剤をあげるのだ。そんなの、無力な私のおこがましさの塊かもしれないけど、きっとお風呂は気持ちがいいだろうから。入れば少しは、さっぱりするだろうから。

 

私にはこのくらいのことしかできない。でもこのくらいならできる。

できるとできないの狭間で揺れる感情を、毎晩お風呂に浸かって落ち着かせている。

 

 

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あの日を覚えていない私は

9月11日。ようやく、1回目のワクチンを打った。

 

遅めの昼食を食べすぎてしまったせいではちきれそうなお腹を抱えたまま、一瞬で摂取は終わった。15分の待機時間を過ぎても、胃のムカつきは残ったままだった。

 

家に帰って、2回目の予約をする。予約画面に表示された今日の日付を見て、はたと思う。あれ、今日って9.11じゃん。今朝もニュースで見たはずなのに、なぜか今になって実感が湧いてくる。あの日から、今日で20年になる。

 

当時5歳だった私は、父の転勤でニュージャージー州に住んでいた。アメリカに住んでいた数年間は、私の人生において最も楽しかった時代と言って差し支えないと思う。もちろんはじめは慣れなかったし、嫌なこともあったけど、アメリカでの生活は自分に合っていたような気がする。

充実した日々を送っていただけあって、あの頃の記憶は今も鮮明に残っているものが多い。親友とピンポンダッシュをしてベビーシッターに怒られたこと、ハロウィンで叔父が被っていたライオンの被り物が怖かったこと、中国系のクラスメートのお父さんが作った餃子がとても美味しかったこと……楽しかったことも嫌だったことも、頭の中で映画を観るようにはっきりと思い出せる。

 

それにもかかわらず、私はあの日のことは全くと言っていいほど覚えていない。あの日のことだけではなくて、その後の混乱や変化も、本当に一切記憶に残っていないのだ。両親がなるべくその話題に触れさせないよう努力していたのかもしれない、と思って尋ねたが、そういうわけでもないらしい。

5歳という年齢を考えると、そんなものなのかもしれない。両親でさえ、まるで映画のワンシーンのようだったと言っているくらいなのだから、飛行機がビルに突っ込んでいく映像も、子供の私には印象的ではなかったのかもしれない。

 

とはいえ、あまりにも記憶がないので、それが何となく違和感として心に立ち現れてきた。別に覚えていなくたって、何が困るわけではないけど、何となく悔しいような、情けないような気持ちになる。こんなに他人事だったっけ、と自分が薄情者のように思えてくる。

私がアメリカ人だったら少しは違ったんだろうか、などと考えたりもするが、別にそうなりたいわけでもなくて、自分の気持ちがわからなくなってくる。

 

もしかしたら何かヒントがあるかもしれないと思い、父に当時の話をそれとなく聞いた。記録として書き残しておく。

 

あの日父はミネソタに出張していて、ホテルのテレビで事態を知った。生中継の映像で飛行機が突っ込んでいくのを見た瞬間、「あ、テロだな」と思ったという。一方で、まさか現実にそんなことが起こるとは、しばらくの間は信じられなかった。

ホテルのロビーに降りると、ざわつきの中、アメリカ人はすぐさまレンタカーをあるだけ押さえていた。一刻も早く家族の顔が見たい、そう思う人が多かったようだ。

ニューヨークまでは車で20時間ほど。どのみち飛行機は一切飛ばないので、父たち日本人も、ホテルが用意してくれた食料と水をレンタカーに積み、交代で運転してニューヨークを目指した。

フィラデルフィア近辺まで来ると、辺りは煙で覆われていた。いたるところの電光掲示板に"United We Stand"と表示され、物々しい空気が漂っていた。煙の上がるツインタワーが高速道路から見えた時、「これは夢じゃないんだ」と父はようやく実感した。

 

あの日からいろんなことが変わっちゃったよね、と父は言う。アジア人に対しては厳しい目が向けられるようになり、あらゆるセキュリティも厳重になった。

ワールドトレードセンターという場所がターゲットになったことも、アメリカ人にとってはかなりの衝撃だった。日本で言えば、そうだな、東京タワーとかスカイツリーに飛行機が突っ込むくらいのものかな、いやもっとかもしれないな。パパもね、PTSDまではいかなかったけど、もしかしたらあの飛行機に乗っていたのかもしれなかったから、しばらくは思い出して辛かったよ。目を閉じて眉間に皺を寄せたまま、父は話を終えた。

 

 

結局のところ、いくらアメリカにいたとはいえ、私は実際の光景を目の当たりにしたわけではないし、身近な人が犠牲になったわけでもない。つまり当事者ではないのだ。それなのに私は、「当事者意識」のようなものを持っていない自分に違和感を抱いていた。浅はかだったな、と反省する。当事者ではないのに、当事者の気持ちなんてわかるわけがなかった。

だけど、それは考えなくてもいい理由にはならない。他人事にしていい理由にはならないと思う。私は多分、自分の無関心や無知を、ごまかそうとしていたのかもしれない。ごまかそうとする自分に、情けなさを感じていたのかもしれない。

 

私が考えたところで、何かできるわけじゃないし、世界が変わるわけでもない。

でも、でもなあ。いい世界になって欲しいって、心からそう思っているのは間違いなくて、何かできる人ならよかったなあって、もどかしさを感じる。

ワクチンの副反応で左腕が痛くなってきた。私に今できること……と考えてみても、とりあえずは外出を控えて、ウイルス対策を徹底することくらいしか思い浮かばない。25歳、子供の頃想像していたよりも無力だ。